軌跡

昭和5年創業の「天一」。
戦前より政財界をはじめ、武者小路実篤、志賀直哉など白樺派のサロンとして親しまれるなど、内外の文化人に多く愛されて参りました。
ここでは、そんな「天一」の長い歴史を彩るさまざまな出会いや出来事の中から、ほんのひと握りを紹介して参ります。
「天一」の創業店は、島村舜画伯えがく、油絵にしか残っていない。
徳富蘇峰氏の国民新聞の記者で、のち独立して、グルメ雑誌の食道楽を創った松崎天民氏の事務所が近くにあった。
昭和初期、世は不況だったが、大正につづく文化燗熟のときで食文化華やかなころ、執筆家も吉井勇、長谷川伸、村松梢風氏など錚々たる方々だった。
天民氏は同郷ということもあって、執筆家たちとよく来店され、叉、食道楽詩に天一をよく紹介して下さった。
その後、天一が銀座の歴史の一翼を担う店になるとは、どなたも思わなかったことだろう。
昭和五年、開店に当たり、小冊子を発行して衆目を集めた。第一頁を飾ったのは、当時、天下に此の人在りと知られた朝日新聞社の鈴木文史郎氏の"鉄は熱いうちに打て、天麩羅は天一に行って釜の前で食へ"の書き出しの一文であった。
表紙を飾ったのは版画マニアには垂涎の的の前川千帆画伯えがく海老を抱えた恵比寿様の絵である。
恵比寿様を鯛の図は決まりだが、海老を抱えた恵比寿様の図はこれ一枚だろう。
昭和初期のある日、川喜田半泥子氏が天一のカウンターに座られた。それが、氏との永いおつきあいの始まりだった。
写真の器は、天一開店当時、「君の使っている器は筋がよいから、私が一つ天ぷらのつゆ皿を焼いてあげよう。」といわれて、いただいたもの。
後年、器に油がのったところで箱に納めて抹茶茶わんに仕立て、半泥子氏に箱書きをしていただいた。
銘“尾花”、天つゆのつゆにゆかりのある銘である。
「出て来い出て来いと長い間御声援をいただいて居りました『天一』が遂に遅ればせながら銀座の天麩羅戦線に現れました」
昭和七年、銀座西八丁目銀座通りの資生堂横を西に入った、今の外堀通りの角に進出した。
隣はバーの草分け「ブーケ」、新橋芸者の置屋が軒を連ねる町内だった。

※都新聞は東京新聞の前身
昭和二十年一月、ラジオドラマ「君の名は」の舞台となった銀座数寄屋橋が空襲された。
そして終戦。二十四年春には宵の銀座にネオンが戻り、天一の揚げ場には戦前にもまして外国からのお客様が見えるようになった。
二十七年から放送された「君の名は」で数寄屋橋が一躍有名になった。

※写真は昭和二十四年ごろの旧数寄屋橋本店夜景と店内
第二次大戦直後、進駐軍司令部との交渉が滑らかに進むよう、時の外相吉田茂氏のご用命で、官邸に揚げ場を設け、連日、接待を受け持った。
もともと、天ぷらは十六世紀、南蛮バテレンといわれたポルトガルの宣教師が来日した折に伝来した魚の料理であるから、欧米人の好みに合うものであった。

※写真は昭和二十八年の東京の食事ベストポイントに天一を挙げた米極東軍情報誌「スターズ&ストライプズ」と、昭和四十五年発行のタイムライフ社の世界の食べ物シリーズ「日本料理」の天一記事。
戦後の志賀直哉日記の中に、「天一」に寄ると記されている。
戦前から天一では、「美」を追求する芸術界最高峰の方々のご愛顧を受け、戦中には疎開先に油の補給に伺ったりもした。
戦後はバーナード・リーチ氏が来日されると、必ず天一で宴をされ、芸術界最高峰の方々の尽きない語らいがあった。

※写真は昭和二十八年来日時。
左から一人おいて里見弴、バーナード・リーチ、武者小路実篤、浜田庄司、谷川徹三の諸先生とリーチ氏の絵。
風雪に耐えた人の顔には、独自の品格があるように、店の看板にも、人のいきざまに似たところがある。二十年間というもの、店の顔ともいうべき格調のある看板の書体をもとめつづけた。
ある時期、歌舞伎の勘亭流であらわしたり、唐顔真卿の「天一山」を模したが、どこか新鮮さが得られない。
そんな折、お客様で、美術について造詣が深い、時の内務大臣湯沢三千男先生をわずらわして、画家小杉放庵先生の書に接し、初めて多年もとめていたものに出会ったよろこびを感じた。

※小杉放庵(1881-1964)洋画家。晩年は水墨画やエッセイも描いた
この拓本は、日中戦争のさ中、北支軍司令官寺内将軍が北京で入手したものを、旧帝国ホテルを建てた異色の建築家、ライトの高弟 遠藤真氏が所望して日本に持ち帰り、天一の天ぷらを召し上がりながら、同行の親友に土産として譲る話をしておられる。
そこで「天一山はやはり天一へ」と懇望していただいたものである。
書は当代随一の書家顔真卿の筆。
拓本の基になった碑が何処にあったか識る由もない。
天一のお持ち帰りの天ぷらを届けられての礼状です。
このごろは、海外土産にも喜ばれています。
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